こんにちは、隼です。
ここ最近、Twitterについて見直している日々で原点に戻る為にもblogを読み返したり、過去のメモを読み返したりいろいろな資料に目を通したりしています。自分の中での1回目の人生はどうやってお金を稼ぐか、その当時は人よりも早く、人よりも多くの情報を、独自のアイデアでオリジナリティ溢れた情報を届けられる人になる事でした。
その為にはやった事のない事、今ないものを提案をやり倒してきました。
そうなったひとつにはお客様の希望通りな提案をしていても時にお客様はこれだけは嫌ですと言われている物件でも買う事があるという経験をした事がキッカケになっています。
そして人生の挫折、事故によって一生介護生活です。「あなたはこの先歩く事が出来ません」と言われました。
そこで感じたのは「自分の人生は全て終わった」
その後「どうすれば死ねるのだろうか」と
「どうやって生きていけばいい」
矛盾した両極端な考えでした。
今考えてみると悩みではなく考えでした。
誰とも会いたくない
話したくもない
日々お見舞いに来てくれる事も迷惑に感じるほど心は荒んでいました。
病院の個室の扉が開く瞬間が苦痛で仕方ありませんでした。
そんな中たった2人の看護師さんが毎日朝晩
「笑顔で入ってくる」
「おはよ〜寂しかった〜?」
「今日帰っちゃうよ〜寂しい〜」
「良く寝れた〜」
「会いたかったでしょ〜」
看護師さんの挨拶?
言葉?
本当はじめはウザくてウザくて仕方なかった
それがふっとした時なんとなく気持ちがかわっている自分がいました。
扉の向こうの人の顔はその2人を除いてはみんな人の顔色を伺っているような顔、不安な顔、面倒な顔
どれも前向きな顔はなかった
それは全て自分のせいなんですけどね
気がつけば数ヶ月で扉があく瞬間求めているのは2人の看護師さんの顔をだった
よく入院して看護師さんとお付き合いしている友人がいましたけどはじめて理解しました。笑
僕の場合にはそんな感じではなかってですけどね。
きっと僕の顔は悪魔みたいな顔をしていたと思いますから!
話は戻ってどうすれば死ねるのかを考える思考こちらはすぐに諦めるしかない事に気がつきます。
寝たきりで動けずにいろいろな機械に繋がれている自分には、死ぬ方法が見つけられなかった
それではどうして生きていくのか
お金はあったのだけど人を信じるよりもお金を稼ぐ事が戦争のようにやってきた自分には、誰かにお金を任せればすぐになくなってしまうのではないか、、、
どうすれば生きていけるのか
どうすれば動かずに働く事が出来るのか
そんな事を考える日々
何かいいアイデアがうまれるとすぐに頭の中で営業に行ってしまう自分
営業に行くならと新しい車を買いに行き乗っている自分を思い描いては歩けないという事に愕然とする日々
そんな事を繰り返していると
ふっと感覚のなかった足に
忘れもしない
今も強烈に残る感覚
右足の親指がビクンと動いた
次の瞬間に根拠も何もないけど
「歩ける」
そう思ったんです
僕は歩ける
そうした時に思い出したのは
テレビで見ていた様々な方々の復活劇
いろいろな成功者たちは、事故や病気になって再起不能と言われるも必ずと言っていいほどにみな復活してくること
そうだ自分も成功していたんだから必ず復活出来る
この時僕の根拠のない自信が生まれたのかも
ナースコールで看護師そんを呼び僕は歩けるのでリハビリをはじめて下さい
?どうされました?
とにかく先生を呼んで下さい
その後約2週間ほどでとりあえず立たせてもらってですが立つ事が出来ました。
車椅子生活がはじまりました。
生涯寝たきりの人生から動ける人生へと変わった瞬間です。
そう人は
イメージして行動に移す事で大抵の事は出てるんだと感じた瞬間です。
その後強引でしたが2週間で退院してしまいました。
退院後はやりたい事もなくただひたすら家にこもり看病して貰いながら届けて貰うか出前で約一年ほど家から出る事もなく生活していました。
驚く事に想像していなかった先輩から声をかけて貰いました
そろそろ何かはじめてみないか?一緒にやろうよ
ありがたかった
何かをはじめてみようといくつかスタートしてみましたがなぜだかお金を稼ぐという事にはモチベーションが上がらず看護師たちの笑顔が思い返され
誰かの為に何かをしたいそんな気持ちが日に日に強くなっていきました。
そんな時にTVのスポンサーのお話が来ました。
丁度アイドルを応援する番組でした。
誰かを応援したかった僕には丁度良かったので始める事に
スタートはじめるといろいろと企画から相談にのることにもなり、その時自分がはじめていた事でもうひとつの企画を立ち上げて応援番組をつくる事となりました。
ローカルではそこそこな番組になり、全国放送へとステップアップへそこで事件が、、、
詳しい事は言いませんが
こで今度はお金、資産全てを失う事になりました。
沢山の方に手を差し伸べて貰って再生する方法もありましたが、一度全く知らない場所で人脈も、なく再スタートしてみたいという感情が生まれていました。
全く何にも縛られず言い訳も何も出来ない、頼る人もいない状況にしなければ
自分のやりたい事は見つけられない
ましてや達成する事など出来ないと思いました。
不思議と不安も何もありませんでした。
近くの人間にはあの事故で死んだと思ってほしいと伝えました。
2009年第二の人生をスタートさせました。
自分は笑顔の為に何かをしたい
みんなで笑顔になりたい
う思って活動をはじめました。
当時はmixiにて発信しながら仲間を集めて行きました。
自分が東京で過ごすにはどこの街がいいのかも探し歩きました。
新宿は似合いすぎてむかしの自分に戻る可能性が高そうに感じ、正反対ならおしゃれな街表参道なんかいいとも思いましたが、銀座から笑顔を世界中へ届けたい
銀座が僕のスタートラインになりました。
笑顔を伝える活動を誰にでも笑顔を届けられる活動を
銀座から笑顔を
みんなで笑顔プロジェクト
と立ち上げてスタートしていくうちに同じような事を言ってる社長がいるから紹介するよと紹介された社長が掲げていたプロジェクトが
「みんなが笑顔プロジェクト」
みんなではなくみんなが笑顔になるプロジェクト
受動ではなく能動的に笑顔になる事の大切さ
言葉ひとつに込められた想い
話せば話すほど深く重みをましていく日本語を大切にみんなが笑顔プロジェクトと自分も名乗らせて頂く事にしました。
そう僕の原点は笑顔
続きはまた僕のアイコンはイッシッシーと笑ってるところからスタートしました。