応援が実現した1万発の打上げ花火

 

エピソードの要約

3.11を機に始まった被災地支援。支援は、地域の復興に向けた応援の始まりでもあった。

ふとした出会いが、想いや未来への希望を語る場になっていく。

2011年8月20日、震災後初めて1万発の花火が夜空に輝き、多くの人の心に残るものとなった。このHANABIプロジェクトは、一人のつぶやきから応援したい人が集まり実現した奇跡の花火となった。資金もなく、知識もなく、技術もない中、応援という人のつながりが実現した伝説の物語。

 

エピソード内容

2011年3月11日をきっかけに有志による被災地支援は始まりました。

物資支援から、5月のゴールデンウィークの炊き出しツアーなど、当時、Twitterを中心に、呼びかけ、自分たちのやりたい支援ではなく、現地の人の必要としていることを応援するとうスタンスを軸に、賛同していただいた多くの方からの応援・支援により活動を行っていました。

ゴールデンウィーク炊き出しツアーの最終日、東松島での子どもの日のお祭りに急遽参加することになり、ちゃんこ屋の親方と運命の出会いがありました。

朝からお昼を過ぎても炊き出しをし続ける姿を見た,ちゃんこ屋の親方から「ごちそうしたい」と声をかけられました。支援に来てごちそうになることは出来ないと断るものの、何度も声をかけ続けてくれる親方は、「誰も来ないお店に戻るのは嫌なんだ。誰かがまたお店で食べている姿がみたいんだ。」と涙しながら訴える姿にちゃんこやを訪れることにしました。

そこで沢山のお話を聞き現地の子どもたちに何かしてやりたいという想い。「毎年行われていた夏まつりが開催出来ないかもしれない、花火でも上がるといいんだけどな」という一言から、花火をプレゼントする企画がうまれました。

まずは、Twitterでつぶやいてみる。何をどうすればいいかもわからないまま、10000万発の花火をプレゼントすることで、応援のコメントが増えていく。

「凄い!応援するよ〜」と応援ツイートは盛り上がっていきました。

 

 

当時としてはまだ珍しい寄付サイト(今でいうクラウドファンディングのようなもの)を、賛同してくれる人たちの力で、花火1発から参加できるサイトを構築することができました。その後、花火職人さんを紹介してくれる人、煙火協会の紹介、企業の紹介などへと、応援の輪が拡がっていきました。

応援のちからを感じる。

まったく知らない煙火協会のルール。協力して貰うことにも沢山の問題があることが見えてきましたが、毎日、沢山の人から解決する方法や、実現するための応援のメッセージが届きました。花火を揚げる、私たちにはやったこともない、資金的にも全くない中で、乗り越えなければならない様々な壁があり、あきらめかけたことさえありました。

それでも、応援してくれる人たちは、新たな人を紹介してくれ、いつしか現地の人たちも巻きこんで、みんなが東松島の人、子どもたちに花火をプレゼントしたいという思いを感じるようになりました。

すべてが順調に進んでいると思っていたところ、問題が発生。

「花火を上げたこともないやつらがどうやって上げるんだ?」

「どこで打ち上げるつもりだ?」お金はあるのか?

「もし集められなかったらどうするつもりだ?」

「余計に現地の人たちの気持ちを傷つけることになるとは思わないのか?」

「これって詐欺じゃない?」

「なぜ打ち上げ場所を公表しないのか!?」

だれもやったことがないからこそ、いろいろな憶測を呼び、不安をあおる人たちも出てきました。それに伴い、賛同してくれていた人たちからも心配の声もでてきました。

人が離れ始めることになりました。

現実には決まっているけど。実際にまだ打ち上げ花火の資金が集まっていないことや、

打ち上げる規模も決まらない中では公表出来ないという事情がありました。

実際に関わってくださる方には直接お話できましたが、特別に関わってくれる方々がおり、ネットでの公表ができないということもありました。情報が漏れると出来なくなる可能性すら生じる可能性がありました。

そういった事情のなか、ネット上でのネガティブキャンペーンは続き、参加してくれることになっていた人や企業も参加する話が流れてしまいました。

メンバーからも心配の声が上がっていましたが、たった一人の出会いで流れは変る、そう信じており、全く心配もしていませんでした。

必ず上げると心は決まっていました。

今でも忘れません。東松島に到着した瞬間です。電話がなります。

「津川雅彦の代理の者ですが、今からでも花火は打ち上げられますか?花火を打ち上げる際に名前を読み上げて貰うことは出来ますか?」

「通常はお断りしておりましたが、逆にお願いしたいこともあります。是非ご協力お願い致します。」

この一本の電話が、HANABIプロジェクトの大きな転機になりました。

お相手は、津川雅彦さんです。

「11111発なんで無謀は数字はやめて3000発ぐらいにしなさい。それくらいなら自分が上げてやるから!」との提案に、即座に「結構です。上がりますから!」と返事。

そこから本気・本音のやり取りが、昼夜を問わず始まります。

そこからあっという間に、100名を超える著名人の方々から、応援のメッセージが届きました。ネットでもそれに合わせて募集はあつまり、ある程度の目処がたった段階で煙火会社様との契約、松島基地、警察、東松島市、消防、などなど全く知らない世界のことが現実になっていきました。お祭りの準備にも勢いが出てきて、街を盛り上げようと、子どもたちの笑顔の為にと、沢山の方々が参加し、盛り上がりを見せました。自衛隊様のご協力も大きいです。東松島基地で打ち上げることを公開するとネットの反応も変わりました。すべての流れが変わって行きました。応援をはじめると応援される。応援する為に応援してもらう事にな、その気持ちに応えようとすることでまた応援の力が湧いてきます。

そして、いよいよその日が訪れました。8月20日。久しぶりに矢本の町に人だかりができ、そのお祭りの最後を飾ったのが、1万発の花火でした。

花火をあげたこともない人たちが、何とかしたいという応援で実現した奇跡の花火。

できる、できないではなく、お互いを思い、応援し合うことで不可能を可能にした花火として、今でも語られています。

 

(追記)

その日限りのものにならないようにと、当日のお祭りや花火の様子を写真や映像として記録し、応援してくれた皆さんに見ていただけるよう、写真展のプロジェクトへとつながりました。

花火は、一瞬の輝き。為に沢山に人たちの応援が集まっていきます。

打ち上げ当日に津川雅彦さんが来てくれました。

打ち上げの音頭取って貰うことになり、するとネット掲載NGだった方々のお名前をオフレコで公表してくれました。

次の瞬間打ち上げのカウントダウン!体が震えました。

宮城では一番大きな打ち上げ花火になる尺玉と言われる300メートルに広がる花火です。

松島基地という大きな場所だからこそ実現したのですが真下ではじめている花火は

どこまでも上がっていき想像を超えるほど高く上がっていきます。

あれ?失敗したのかな?と思うほど見えなくなったと思った次の瞬間に大きな大きな花火が打ち上がりました。見上げ過ぎてひっくり返るかと感じるほどでした。

この状況はLIVE配信で世界中に配信もしました。

応援してくれた方々にも見て貰う為にネット回線も専用に引きました。

応援してくれた方々に恩返し、現地の方々が泣きながら駆け寄って来てくれました。

危うく泣きそうだった自分も我に返ってメンバーに感謝の言葉をかけることが出来ました。

控え場所に戻られた津川さんのもとへいくと、協力してくれた方々へひとりずつ電話をかけて花火の音が聞こえるようにありがとう!〇〇くんの花火無事上がっているぞ!〇〇ちゃんの花火凄くきれいだぞ!聞こえるか!ありがとう!打ち上げ開始から約一時間の1万発の花火終わる最後まで電話され続けていました。応援してくれた方々への心配りも超一流なんだって感じさせて貰った瞬間でもありました。終わった瞬間。嬉しい言葉をかけて頂きました。「新城くん君は俺の生涯最後に親友だからな!ありがとう」東京へ帰ったら一緒に飯でも行こう!「ボランティアや応援に火がついちゃったから協力してくれるか?」ってことで津川ゼミという俳優の後輩さんたちや社会の応援活動がはじまりました。自分の持っているものをすべて後輩たちに教えていく。東北の応援も続けよう!と津川さん主催の津川ゼミは日本の美しいものを探す会として「探美会」と名付けられ毎月俳優さんや映画関係者に学生を招いて応援の会は行われました。その際に応援してくださった俳優さんたちにもお会いして直接お礼をさせて頂くことが出来ました。その時にみなさん口を揃えて言われていたのは俳優って現地で何が出来るんだって感じている時に自分の名前が応援になるって凄く感謝している。逆に応援になったよとおっしゃられる方が多かったです。ここでも応援すると応援されている。ってことを改めて感じました。

2018年8月4日(78歳没)生涯現役最後の最後まで全力で世には出てない出来る応援活動をされていたこと。日本の伝統を後世へと残すための応援活動、自分たちへの活動、自分の信念を曲げてまでも東北の応援をされていたこと。現地の方々とのつながりも大切に今も応援をはじめて応援されたこと。応援するために応援して貰うことこの連鎖は11年たった今でも東北から世界へと続いており応援の素晴らしさ。何もなくなった時に条件も何も揃っていなくても出来ることはある。ってことを伝えていくこと挑戦と応援を文化にする。を合言葉に自分たちの活動もこの先100年続いていけるようにと伝えていくことが生きがいにもなっています。

 

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